辻村深月さんの『凍りのくじら』を読みました。
10年以上前に一度読んだ作品なので、今回は再読です。
結論から言うと、僕にとって指折りのお気に入りの一冊になりました。
この記事では、主人公・理帆子の「少し・不在」という自己評価を中心に、人物の魅力や読み味、どんな読者に向いていそうかなどを紹介します。
前半は未読の方にも読んでもらえるようネタバレを避けながら、作品の魅力をお伝えします。
後半ではネタバレを含めながら僕なりの感想を書き、作者がラストで明かさなかった、とある表現についてもひとつの答えを出してみました。
……再読とは言いつつ、細かなストーリーどころかラストまでほとんど忘れていたので、感覚としては初読に近い読書でした。
それでも、10年以上経ってなお鮮明に覚えていたセリフがあります。
当時はグサリと刺さったその言葉を、今回はまったく違う意味で捉えるという経験もしたので、それもお伝えできたらと思います。
『凍りのくじら』はどんな小説?

まずは『凍りのくじら』の概要をAIによる文章でご紹介します。
『凍りのくじら』は、辻村深月さんによる長編小説です。
2005年に講談社ノベルスから刊行され、2008年に講談社文庫化されました。文庫版は576ページあります。
主人公は高校2年生の芦沢理帆子。
藤子・F・不二雄を愛する父が失踪してから5年。病気の母と暮らす理帆子は、夏の図書館で「写真を撮らせてほしい」と声をかけてくる青年・別所あきらと出会います。
作品を特徴づけているのが、『ドラえもん』をはじめとする藤子・F・不二雄作品との結びつきです。
章タイトルにはひみつ道具の名前が使われ、辻村さん自身も『ドラえもん』が家族や子ども時代の記憶と結びついていることを、本作の「家族」というテーマに重ねたと語っています。
参考:講談社『凍りのくじら』作品紹介、辻村深月インタビュー
章タイトルがすべて、ドラえもんの道具の名前なのも印象的でした。
タイトルだけでなく、ストーリーにも道具の特徴が反映されているのも見どころです。
最初は似ていないと思った理帆子に、だんだん自分を重ねた

個人的に主人公と自分を重ねられるかは重要だと思っています。
同じ考えの人も多いのではないでしょうか?
そういう意味で見ると、主人公の理帆子と僕にはそれほど共通点がありません。
性別も年代も違います。
でも性別や年齢といった、まっさきに把握できる特徴に次いで見えてきたのが理帆子の人との距離感と見方でした。
理帆子は、飲み会のような場でも相手を観察しながら、その人が何を求めているのかを考え、自分の言葉や立ち位置まで調整します。
この特徴には、僕も同じだとすごく共感しました。
僕の場合は、人と話しながら実行する余裕は皆無なので、話し終えた後で「あれはどういう意味だったんだろう」「あのとき相手は何を考えていたんだろう」と繰り返し思い返すのですが……。
ネットの声を見ていると、理帆子を嫌な性格だと思う人も少なくないようです。
しかし僕は、彼女に共感したことで嫌悪感を覚えませんでした。
理帆子が自分を定義した「少し・不在」という表現にも、妙な説得力を感じます。
相手のことを考えすぎると、自分自身の主観が薄れて、自分の足場がどこにあるのか分からなくなるのだと僕は解釈しました。
これもまた、理帆子に自分を重ねた要因の一つです。
ネット上の感想を調べると、理帆子への印象はかなり分かれているようです。
周囲の人を内心で見下すところや、冷めた視線、若尾との関係などに嫌悪感や苛立ちを覚え、「最初は主人公が嫌いだった」「読むのをやめようかと思った」という感想も見つかりました。
一方で、「自分にそっくりだと感じた」「少し・不在という感覚に強く共感した」という読者もいます。
辻村深月さん自身も、理帆子の「少し・不在」な感覚は自分にもあり、共感できるところがたくさんあると語っています。
理帆子を好きになれるかどうかというより、その独特な人との距離感や考え方に、自分の一部を見つけるかどうかでも読み味が変わる主人公なのかもしれません。
「スコシ・ナントカ」という理帆子の見方がおもしろい

理帆子は自分にだけでなく、出会う人々に「スコシ・ナントカ」という独特な個性を与えていきます。
これも僕が理帆子の視点を楽しめた理由の一つでした。
相手の特徴や言動をそのまま受け取るのではなく、「この人はどういう人なんだろう」と自分の中で再解釈する。
それをこの人は「少し○○」だと、いわゆるレッテルを貼っていくのです。
あまり褒められた癖ではありませんよね……。
相手を評価する行為にも近く、「何様だ」と理帆子にも、同じようなことをする自分にも思います。
自分の中だけで、相手への印象が誤った方向へ膨らんでしまう可能性だってありますしね。
『凍りのくじら』では、理帆子が周囲の人をどう捉えているのかに注目して読むのもおすすめです。
物語が進むにつれて、理帆子自身の「人の見方」も少しずつ揺さぶられていきます……。
プロローグから「この先」が気になる

序盤はかなりゆっくりだなと感じました。
良くも悪くも、ストーリーの進行が遅く見えるんです。
それでも冒頭からして、先を読みたくなる仕掛けにあふれているのが窺えました。
プロローグでは、二十代になった理帆子が取材を受けています。
ところが本編が始まると、理帆子はまだ高校生です。
この高校生が、どうやってプロローグの理帆子になるのか?
加えて、プロローグで語られる「彼」とは誰なのか?
そんな謎が自然と想起され、読者の興味を惹いていきます。
なかでも印象的だったのは、理帆子が暗い海の底や宇宙まで届くような「光」を浴びた経験について語るところです。
そして、その光を私は浴びたことがある。声に出さず、心の中で付け加える。
辻村深月『凍りのくじら』15ページ
誰も信じないかもしれないが、もう何年も昔、私はそれに照らしてもらったことがあるのだ。
「光を見た」ではなく、「浴びた」……。
その言葉が何を意味するのか分からないまま、本編が始まります。
序盤は方向性が見えにくい。でも人物への興味で読めた

文庫版で200ページを超えたあたりでも、僕はまだ「この物語は結局、どこへ向かうんだろう」と思っていました。
理帆子には、母との関係や元彼との問題など、いくつもの事情が見えてきてはいました。
ただ、序盤では「これを解決する」「ここを目指す」という一本の明確な目標は見えにくい。
だから、物語の方向性も掴みにくかったのだと思います。
一方で、それが退屈だったわけではありませんでした。
母や元彼との関係、理帆子の達観した性格や思考が、読み進めるうちに少しずつ問題の色を帯びていく。
何より僕自身、理帆子の思考に共感できるところが多かったので、
「理帆子はこの物語で何に直面するんだろう」
「どんなふうに変わっていくんだろう」
といった興味がありました。
事件で強く引っ張るというより、人物そのものへの興味で読み進める作品と言えそうです……。
以上、ここまでがネタバレを避けた、未読の方に向けた作品紹介です。
どんな人が楽しめる作品なのかと、相性が良くない可能性のある人を僕なりにまとめておきますね。
『凍りのくじら』は、出来事の大きさより、人物の内面や人間関係の変化をじっくり追いたい人に向いていそうです。
- 人物の考え方や心理を読むのが好き
- 少し冷めた、一歩引いた視点を持つ主人公に惹かれる
- 家族や友人との関係が変化していく物語が好き
- 序盤の積み重ねが後半で意味を持つ作品が好き
- 『ドラえもん』や藤子・F・不二雄作品を使ったモチーフに興味がある
一方で、
- 序盤から明確な目標や大きな事件がほしい
- テンポよくストーリーが進む作品を読みたい
- 人物の長い内省や心理描写が苦手
- 主人公に好感を持てないと物語へ入り込みにくい
という人には、少し合わない可能性があります。
僕自身は、序盤で物語の方向がなかなか見えないと感じつつ、理帆子がこれから何に直面し、どう変わっていくのかの方が気になっていたので、結末も含めて大いに楽しめて満足できる作品でした。
「少し・不在」だった理帆子が、現実の中に立っていく

ここからは『凍りのくじら』の結末を含む重要な内容について触れます。
未読の方は、ぜひ読了後に戻ってきてもらえたらうれしいです。
今回の再読で僕が一番注目したのは、理帆子という人物の変化でした。
序盤の理帆子は、人をよく見ています。
相手が何を考えているかを分析し、その場でどんな言葉を選ぶべきかまで考える。
その一方で、自分自身はどこか人間関係の外側にいる。
だからこそ「少し・不在」という言葉が似合うのだと思います。
ところが物語が進むにつれて、それまで理帆子が内心で軽く見ていた人たちにも、彼女にはない魅力や強さがあることが分かってきます。
そして理帆子自身も、自分が彼女たちを見誤っていたこと、実はその生き方に憧れていたことを認める……。
そこがすごくよかったです。
人を分析することが得意だからといって、その人を正しく理解できるわけではない。
そのことを知り、自分の見方の間違いを認められること自体が、理帆子の変化だったように思います。
それはまた、理帆子が「少し・不在」という立ち位置を変える結末にも繋がったと思います。
一番感動した、母のフォトブック

今回、僕が一番感動したのは母親のフォトブックのシーンでした。
読者は基本的に、理帆子の視点から母親を見ています。
だから僕の中にも、いつの間にか「理帆子から見た母親」の像ができていました。
ところが、フォトブックに残された母自身の語りに触れると、その印象が変わります。
とても思慮深く、何より娘を深く愛していた人だったことが伝わってきましたよね。
別所の過去から語られる母の姿も、その人物像を別の方向から補っていたように思います。
僕はそれまで理帆子にかなり共感して読んでいたので、母の言葉も、理帆子に近い場所から感じることができました。
理帆子、お父さんには言ってあげませんが、
辻村深月『凍りのくじら』473ページより
その代わりに、あなたにあてて言いましょう。
お母さんは、あなたに感謝しています。
お母さん。呟くと、病室で最後に一度だけ彼女が目を開けたその光景が、今更のように胸に蘇った。山のように積まれた父のポジフィルム。それを見て言う。『よかった。これでできた』
辻村深月『凍りのくじら』473ページより
亡くなった母から届く「感謝しています」や「よかった」という言葉。
それは理帆子にとって、大きな救いになったのではないかと思います。
とりわけ感動したのは、病院を去るときに振り返った理帆子の姿が写真に残されていたことです。
ずっと人を見る側だった理帆子も、実は母からずっと見てもらっていた……。
互いに想い合いながら、母が生きているうちにうまく伝わることはありませんでした。
だからこそ、最後にその愛情が形になって届くことが、とても感動的です。
感情の高まりだけを考えれば、ここが物語のクライマックスでもいいと思えるほどでした。
でも同時に、この愛情を受け取った理帆子が、ここからどう生きるのかを見たいと思わせるのがこの作品の推進力の高さと言えそうです。
若尾への怒りと、「少し・不在」ではなくなる理帆子

若尾が飛び降りる場面も強く印象に残っています。
場面そのものの緊迫感もさることながら……。
若尾の「己の愚かさが見えていない身勝手さ」には、油断すれば自分もこうなるかもしれないという恐ろしさを感じました。
無関係の子どもを無思考で巻き込む、愚かしい残忍さへの怒りも当然湧きます。
そういう、恐怖と怒りを同時に抱くという読書体験は初めてのものでした。
そして理帆子の怒りには、若尾だけではなく、彼を見誤っていた自分自身への怒りも混じっていたように感じました。
それまでの理帆子は、自分が相手からどう見えるのか、自分がどんな立場にいるのかをよく考えていました。
心のどこかで自分はうまくやっていると思っていたかもしれません。
……その奢りが、あの事態を招いてしまった。
このシーンでの、理帆子の怒りや、やるせなさが込められた叫びには、読んでいて胸を締め付けられました。
でも同時に、理帆子の成長が見えたシーンでもあると思います。
本当に大切なものができたからこそ、一歩引いて考える余裕がなくなった——。
それは理帆子が「現実を生きられるようになった」瞬間にも見えました。
このときの理帆子は「少し・不在」には見えません。
その後の、郁也のために必死に動く姿も含めて、理帆子はただ周囲を観察する人ではなく、自分自身が人との関係の中へ入っていける人になったように思えます。
別所の仕掛けは蛇足にも思えた。でも、テキオー灯が感動的だった

一方で、作品のすべてに納得したわけではありません。
別所の正体が理帆子の父親だった、という仕掛けには、正直なところ少し無理を感じました。
僕自身は、本当にギリギリまで気付きませんでした。
郁也を探し出した理帆子の前に別所が現れたところで、ようやく思い至ったという感じです。
なぜ別所がここにいる? → 普通の人間ではない? → ……父親か!
という気付き方でした。
あらためて考えれば、嫉妬深い若尾が別所には言及しなかった点、別所と理帆子が写真を撮るシーンだけ文体や雰囲気が他と異なる点など、伏線と言える要素はいくつもあります。
そこは流石だと思いました。
一方で、超常現象のある世界観をそれまで匂わせていなかったことには、ミステリーとしては読者側が少し不利にも思えます。
また、理帆子が「別所」という姓と父親の旧姓を結びつけないことにも、少し無理を感じました。
この類いの仕掛けには、個人的にとある有名な名作映画を連想します。
僕はそういった、作品としての価値の大半がストーリー上の仕掛けに集約される作品が、あまり好みではありません。
人物が何を感じ、何に葛藤し、どう変わっていくのかを物語を通して見てみたい——。
だから、そうしたものと強く結びついていない仕掛けには、少し冷めてしまうようです。
『凍りのくじら』では、真相が明かされたあとに回想を使いながら伏線を説明していくので、その点も作者の存在が見えてしまって少し残念に思いました。
とはいえ、『凍りのくじら』はミステリーを主題にした作品ではないと思います。
僕は、理帆子がテキオー灯を「浴びる」シーンがすごく気に入りました。
このシーンは、父親である別所が相手だったからこそ価値のある出来事です。
テキオー灯は、父親からの最後の愛情とも取れそうです。
今しばらくは氷の下で過ごさなくてはならない娘への置き土産。
そして、有効期限のある光しか残せないことへの悔しさまで、そこに込められているように感じました。
もっと言えば、ここでテキオー灯の効力を得られたこと自体が、理帆子の成長の恩恵とも捉えられそうです。
成長した理帆子だからこそ、これからは氷の下でも息ができる。
いつかは、そこから抜け出すことだってできる。
そういったものを、テキオー灯という道具で視覚的に表現しているのだと思います。
そして、このシーンに至るまで理帆子を導いたのが父である別所だったことも含めて、僕には大満足のラストでした。
仕掛けとして納得できるかどうかと、その仕掛けによって生まれる感情は別ものなのだと、このシーンを読んでいて思わされました。
別所が父であるという真相も、この作品には必要だったのだと最終的には納得できています。
辻村深月さんは後年のインタビューで、『凍りのくじら』はミステリー色の薄い作品で、オチについては自身にも「ミステリーとしてアンフェアなことをしている」という感覚があったと振り返っています。
それでも「あの形で書きたかった」と語っています。
参考:文春オンライン「辻村深月インタビュー」
郁也の「スコシ・○○」は何だったのか

そして、もう一つ考えたくなったのが、作中で明かされない郁也の新しい個性です。
これは読了した人なら、気になった人も多いのではないでしょうか。
僕はネット上の考察を調べる前に、まず自分なりの答えを考えてみたのですが、ここではネットの声を先にお見せしますね。
郁也の新しい個性については、読者の間でもさまざまな考察があります。
今回確認できたものでは、「スコシ・不思議」、鳥のように飛び立とうとする描写から考えた「スコシ・フライ」、flawless(完璧)に結びつける読みなどがありました。
また、具体的な一語を決めず、「これから世界へ羽ばたいていく郁也に合う言葉なのだろう」と読む感想もあります。
今回確認した範囲では、作者自身が空欄の正解を明かした一次資料は見つかりませんでした。
ここから先が、僕なりの考えです。
まず理帆子は、郁也を「スコシ・不足」と捉えていました。
でも成長した郁也を見た理帆子は、新しい「スコシ・○○」を思いつきます。
「郁也はね、『スコシ——」
辻村深月『凍りのくじら』550ページより
直前では、成長した郁也が凍った冬の湖の上に立ち、雲の隙間から差す光を全身で受け、今にも飛び立とうとする鳥のように描かれています。
ここだけを見れば、「スコシ・自由」のような言葉も連想できます。
でも僕が気になったのは、その直後に続く文章でした。
そこでは「海の底」「光」「息ができる」「居場所」といった言葉が続きます。
郁也が立っているのは、凍った湖の上。
この場所は、タイトルにもある「氷」を連想させます。
そこで郁也は光を浴び、今にも飛び立とうとしている。
この光は「テキオー灯」ではないでしょうか? それを浴びた郁也が氷の下から抜け出して自由になった姿だとしたら……。
作者が空欄に用意していた正解が何だったのかは分かりません。
でも、物語全体を読み終えた僕が郁也につけるなら、
「スコシ・凍りのくじらだった」
を推します。
「だった」が大切だと思います。
以前の理帆子には、郁也が「不足している」ように見えた。
でも、単に何かが欠けた人だったのではなく、凍った場所で息を潜めていた人だったのだとしたら。
その過去があったからこそ、今は光を浴びて飛び立とうとしている。
氷の下で耐えていたからこそ理帆子と出会い、二人でいられる今にもつながった。
人は、過去をすべて消して別人になるわけではない。
それまでの自分を抱えたまま、それを次の自分の糧にしていく。
それは僕が理帆子の変化について感じたこととも重なります。
『凍りのくじら』というタイトルを、氷の内側で息苦しさを抱えていた存在が、光を受け取って外の世界へ向かっていくイメージとして読むなら……。
理帆子も郁也も、
「スコシ・凍りのくじらだった」
と考えると、僕にはしっくりきます。
みなさんは、郁也は「スコシ——」なんだと思いますか?
おわりに:10年以上前とは、「挫折しなくちゃ」の意味が変わっていた

冒頭でお伝えしたように、僕は10年以上前にこの作品を読んで「鮮明に覚えていたセリフ」がありました。
あの頃は、ライトノベル新人賞に応募し始めた時期だったと思います。
作家になりたい気持ちが強くて、できれば一生の職業にしたかった。
でも、仮にデビューできたとしても、自分には専業作家として食べていけるほどの才能はないかもしれない。
そう考えて、応募作を書きながら読書ブログや創作論のブログなど、別の可能性も試していました。
「二兎を追う者は一兎をも得ず」
そんな言葉が何度も頭をよぎっていました。
そんなときだったからこそ、ひどく響いたのだと思います。
「挫折しなくちゃ」
辻村深月『凍りのくじら』301ページ
まるで、自分もそろそろ諦めるべきだと言われたように感じました。
でも今回あらためて読むと、その後に続く言葉にも目を向けることができました。
「精一杯、本当にギリギリのところまでやった人にしか、諦めるなんてことはできない。挫折って、だから本当はすごく難しい」
辻村深月『凍りのくじら』301ページ
理帆子が言うように、僕は本当にギリギリのところまでやっただろうか。
そう考えると、まだそこまで行けていないと思いました。
むしろ、僕がやりたいことは、働きながらだって一生続けることができるとすら開き直れます。
だったら、人や環境のせいにして諦める理由を探すのではなく、まずは自分自身と向き合いながら、もう少し頑張ってみたい。
そんなふうに力が湧いてくる言葉にも今は感じられます。
同じ本の、同じシーンです。
それなのに、読む自分が変われば、受け取るものまで変わる。
これこそ、今回いちばん再読のおもしろさを感じたところかもしれません。
僕は今も氷の下にいるのだと、この作品を読んでいて自覚もしました。
それを認め、今はここで必死に呼吸していたい。そしていつかは理帆子や郁也のように、この凍えるような氷の下から抜け出さなくちゃと強く思います。
Rib-Knotや僕自身については、別の記事でもう少し詳しく書いています。僕の名刺代わりの記事なので、もしよろしければ読んでみてください▼
【未だ。01|自己紹介】未藤エンとRib-Knot〜内向的だから、小説が好きなのだと思っていた〜
10年以上前には、ただ「良い作品だった」という感触だけが残った『凍りのくじら』。
今回は、もう忘れないと思います。
それくらい、大好きな作品になりました。

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