鳴かない村【ニヒアとリア】

違和感の正体に、ニヒアはすぐ気付いた。
この村には、人が集まれば自然と発せられるはずの音がない。

人の行き交う、露店の通りにいた。
荷に揺れる魔導具の当たる音、靴が石畳を叩く音、露店の前で客が革袋から銅貨を取り出す音。
生活音はある。

ただ、声だけがしない。

そのことに、ひどく不思議な感覚にさせられた。

外から来たニヒアとリアを見ても、誰一人として好奇のまなざしを向けなかった。
興味がないというより、すでに知っているとでもいうように。

一人の露店の主人が空を見上げた。
とたんに周囲の露店がいっせいに動き出す。
商人たちは商品を木箱へ戻し、残った品には手早く雨よけの布を被せていった。

ニヒアも空を見た。
重い雲が垂れ込みはじめている。頬を撫でる風に、まとわりつくような生ぬるい湿気が感じられた。
まもなく雨が降るのだ。

「便利な種族だな。鳴かずに済む」

無人になった露店の天幕で雨宿りしながら、リアが言った。

「話すことを鳴くって言わないで。……意識を統合している種族、かな?」

リアは村人たちの、統制された流れるような動きを景色のように眺めていた。
ただ、雨に濡れない場所を選び、そこに立っているだけという印象を受ける。

ニヒアも同じように、あるいはリアよりは興味をともなって、彼らを見た。

言い間違いもない。
聞き間違いもない。
言えなかった後悔も、たぶんない。

——もしそうなら、少しだけ羨ましい。

そう思ってしまう自分に、ニヒアは自嘲するように小さく笑った。

そのとき、背後から声がした。

「旅の人、か?」

ニヒアは振り返った。
雨よけの布の下に、ひとりの子どもが座っていた。
灰色の薄い外套をまとい、膝を抱えている。村人と同じ種族らしい。

けれど、その子だけが探るような視線をニヒアとリアに向けていた。

「あなた、話せるの?」
「話せる。だから、うるさい、って言われる」

誰もそんなことは言っていない。
けれどこの子には、村中の沈黙がそう聞こえているらしかった。

「わたしはニヒア。こっちはリア。あなたの名前は?」
「ネイ」

雨が強くなる。
村人たちは言葉を交わさないまま、軒下へ移り、荷を守り、火を小さくした。
村人たちの間には、淀みなく描かれる、美しい円を思わせる繋がりが見える。
ネイだけが、その円の外にいるかのように、茫漠と村人たちを見つめていた。

「みんなは、分かるんだ。誰が何をしたいか。何が危ないか。何を食べていいか。でも僕は、ときどき分からない」

意識を統合する種族。
ネイは一族でもイレギュラーな存在なのかもしれない。
それは、なんてつらいことなのだろうとニヒアは他人ごとに思えなかった。

ネイが露店に残された白い豆を指さした。

「昨日、角のある旅人たちがそれを食べて倒れた。僕は止めようとした。でも、うまく言えなかった」
「この豆を食べて? 毒でもあるのかな」

ニヒアが白い豆をつまみ上げて観察していると、脳裏に無機質な声が響いた。

『植物性毒素。浸水、加熱、発酵などの処理により低減できる場合がある』

ここではない、どこか別の世界の、科学と呼ばれる知識を囁く”声”。
ニヒアが物心ついたころにはすでに共にあった。
ニヒアは誰にでも聞こえるものだと思っていたが、そういう人にはこれまで会ったことがない。

前触れもなく響く”声”に、ニヒアは返事をしない。
この無機質な声は一方的に教えてくるだけだ。

ニヒアは白い豆を、角度を変えながら見る。
丸く、つやがあり、爪ほどの大きさをしている。表面には、雨空の色を薄く溶かしたような青い筋が一本走っていた。

「この青いところは?」
「食べない」

ネイは即座に言った。

「どうして?」
「まだ、起きてるから」
「起きてる?」
「うん。水に沈めて、眠らせる。沈まないものは、ずっと起きてる。だから捨てる」

ニヒアは豆を割った。
青い筋の内側には、わずかに渋い匂いのする芽が隠れていた。

『胚芽、または毒性成分を含む部位の可能性。未処理の豆類には、種によって摂食障害を起こす成分が含まれる場合がある』

「……なるほど」

ネイの言葉は、拙い。
でも、間違っているわけではない。

この子は伝えたかったのだ。
ただそれを、届く形にできなかっただけで。

「昨日、なんて言ったの?」
「青いところ、だめ。起きてる豆、だめ。白い湯気まで待って、って」
「それで?」
「角の人は、怒った。子どもに食べ方を笑われたと思ったみたい」

ネイは膝を抱え直した。

「僕は、止めたかった。でも、僕の言葉は、みんなの中ではうるさくて、外の人には足りない」

雨が天幕を叩く。
村は静かなままだった。

誰かがネイを責めているわけではない。
誰かがネイを慰めているわけでもない。

ただ、すべてを分かちあうものたちの沈黙が、ネイの心だけを遠ざけていた。

リアは何も言わなかった。
村の仕組みにも、ネイの孤独にも、口を挟む気はないらしい。
ただ、ニヒアが豆を見つめはじめると、ようやく好奇心の色が瞳に差した。

ニヒアは、露店の隅に転がっていた果物を手に取った。
雨に濡れた、青いリンゴだ。

「ネイ。これは?」
「リンゴ」
「うん。リンゴだね」

ニヒアはそれを手のひらで転がした。

「でも、私がリンゴって聞くと、赤いものを思い浮かべる」

ネイは不思議そうに瞬きをした。

「でも、これは青いよ」
「そう。だから、リンゴって言葉だけだと、少しずれる」

ニヒアは青い皮を指でなぞった。

「青いリンゴ。硬いリンゴ。酸っぱいリンゴ。雨に濡れたリンゴ。そうやって言葉を足すと、私とネイが思い浮かべるリンゴは重なっていく」
「同じになる?」
「ならないと思う」

ニヒアは少し笑った。

「でも、近づける」

ネイは青いリンゴを見つめた。

「言葉は、近づくためのもの?」
「たぶんね。伝えたいことを、そのまま渡すものじゃなくて、こっちを見てって指さすもの」

ニヒアは白い豆を手に取った。

「だから、この豆も同じ」
「豆は、豆だよ」
「うん。でも、角のある旅人たちには、それだけじゃ足りなかった」

ニヒアは豆の青い筋を小さな刃で切り取った。

「そのまま食べると危ない豆。青い筋を取った豆。水に沈めた豆。灰の湯で煮た豆。誰かに出してもいい豆」

切り分けられた豆が、布の上にころころと転がる。

「同じ豆でも、言葉を足さないと、別のものとして届かない」

ネイは黙っていた。

「昨日の僕は、足りなかった?」
「うん」

ニヒアは答えた。

「でも、言おうとした」

ネイの目が少し揺れた。

「言おうとするだけで、足りる?」
「足りないこともある」

ニヒアは鍋に水を注いだ。

「だから、もう一度選ぶ。違う言葉にする。相手に届く形を探す」
「怖いね」
「怖いよ」
「間違えたら?」
「直す」
「怒られたら?」
「謝る」
「届かなかったら?」

ニヒアは火をつけた。

「もう一度、選ぶ」

鍋の湯が静かに震えはじめた。
その音に、リアが初めて身じろぎした。
村人たちの沈黙よりも、ネイの震える声よりも、鍋から立ちのぼる湯気の方がよほど興味を引くらしい。

「それは食えるのか」
「たぶんね」
「たぶんで鍋を使うな」
「食べる気あるんだ」
「ある」

短く答えると、リアはまた黙った。
けれどその目は、もう村ではなく鍋を見ていた。

ネイは豆をひとつ手に取り、しばらく黙って見つめた。

「青い筋は……取る」

次の言葉を探すように、少し間が空く。

「沈まない豆は、捨てる。起きてるから」
「雨水に、ひと晩。眠らせる」

ネイの指が、宙で煮る仕草をした。

「灰の湯で煮る。苦い匂いが、消えるまで」

最後だけ、少し顔が上がった。

「湯気が白くなって……甘い匂いがしたら、食べられる」

たどたどしかった言葉が、ひとつひとつ鍋の中で形を得ていく。
ニヒアは香草を刻み、根菜を加え、酸味のある木の実を潰して混ぜた。
豆の青臭さは薄れ、やがて雨上がりの土のような、やさしい匂いに変わった。

リアがわずかに鼻を鳴らした。

「悪くない匂いだ」
「まだ味見はだめ」
「言われなくても待つ」
「ほんと?」
「少しは待つ」

そこへ、角のある旅人たちが戻ってきた。
額から細い角を生やした三人組だった。ひとりは腹を押さえ、もうひとりは怒りを隠そうともしていない。

「この村は毒を売るのか」

村人たちは何も言わなかった。
怒りの言葉が空へ放たれ、沈黙だけが返る。

その沈黙を、旅人たちはさらなる拒絶と受け取ったようだった。
表情に怒気の色が浮かんだ。

そのとき、ネイが立ち上がった。
けれど、すぐには声が出ない。
濡れた外套の裾を握りしめ、喉だけが小さく動いている。

ニヒアは何も言わなかった。
代わりに、鍋の火を少し弱めた。

リアも口を挟まない。
ただ、ニヒアの背後に立っていた。
守るというより、成り行きを見ているように。
そして時折、鍋の匂いだけを確かめるように。

ネイは一歩、前に出た。

「昨日の豆は、毒じゃない。でも、毒だった」

旅人の眉が険しくなる。

「ふざけているのか」

ネイの肩が震えた。
それでも逃げなかった。

「違う。言葉が足りなかった」

雨だれが、天幕の端から落ちる。

「この豆は、そのままだと、あなたたちには強すぎる。青い筋を取って、水に沈めて、灰の湯で煮る。そうすると、食べられる」

ニヒアは鍋からすくった豆を器に入れてやった。
ネイはそれを両手で受け取り、怒りを露わにする角のある旅人に差し出した。

「これは、食べられます。昨日の豆じゃありません。言葉にした豆です」

旅人たちは互いに顔を見合わせた。
疑いは消えていない。
それでも、ひとりが器を受け取った。
匂いを嗅ぎ、慎重にひと口食べる。

長い沈黙が落ちた。

それから、角の先がわずかに揺れた。

「……うまい」

ネイが泣きそうな顔で笑った。

その瞬間、村人たちがいっせいにネイを見た。

何かを言う者はいない。
けれど、その沈黙はさっきまでと違って見える。

「今、みんな、僕を見た」

ネイが囁くようにニヒアに言った。
ニヒアは何も言わず、ただ頷いた。

リアは旅人たちの反応より、鍋の底に残った豆を見ていた。

「ニヒア」
「なに?」
「余った分はどうする」
「食べたいんでしょ」
「食えるものを残す理由がない」
「はいはい」

ニヒアはリアとネイ、自分の分も豆を器によそって、それから思い出したように代金の銅貨を豆の入った箱の縁に置いた。

雨は上がっていた。
雲の隙間から細い光が落ち、濡れた露店の布を淡く照らしている。

村を出る前、ネイはニヒアに聞いた。

「言葉って、不便だね」
「うん。不便だよ」
「足りないし、間違えるし、言ったあとで怖くなる」
「うん」
「でも、遠い人には、ないと届かない」

ニヒアは頷いた。

言葉にしなくても伝わるものがある。
きっと、それは美しい。
けれど、言葉にしなければ届かないものもある。

不完全な言葉を選ぶのは、完全に伝えるためではない。
伝わらない相手に、それでも近づきたいと願うからだ。

ネイが村へ戻っていく。

その背中はまだ小さく、村の大きな沈黙にまたすぐ呑まれてしまいそうだった。
けれどニヒアには、その子の足音だけが大きく聞こえた気がした。

「やはり面倒だな」

村を離れてから、リアが言った。

「伝えるために鳴き、間違え、怖がり、それでもまた鳴く」
「鳴くって言わないで」
「だが、今日の豆は悪くなかった」
「料理の話?」
「言葉にした豆の話だ」

ニヒアは笑った。
リアは少しだけ目を細めた。

「他人ごとだとは思えなかったか?」

問われて、ニヒアはリアを見た。
リアはもう、ニヒアを見てはいなかった。

ニヒアはしばらく黙って、前を向いたまま答えた。


「そうだね」

それだけ言った。

「お前はいつも余計なものまで料理する」
「余計なもの?」

「寂しさとか、怖さとか、そういう私には到底、食えないものだ」

ニヒアは返事に迷った。

「食べてるくせに」
「だから言っている」

頭の奥で、”声”が告げる。

『言葉。概念を共有するための記号体系。対象そのものではなく、対象を指し示すもの』

どこまでも正しい。
だからこそ、何かが足りない気もした。

ニヒアは振り返った。

鳴かない村は、もう雨雲の向こうに霞んでいる。
そこに自分の言葉が少しでも残ったのかは、分からない。

でも、ネイはきっとまた話す。
怖いまま、足りないまま、それでも誰かに届く形を探して。

ニヒアは前を向いた。

形にできないものを抱えながら、言葉を使って近づけていく。
それはたぶん、誰かと繋がろうとする、ひどく不完全で、けれど確かな意思だった。

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